――――― NBSAネット・ニュース 2004年12月号(2) ―――――

 

  ネパールの視覚障害者を支える会

Nepal Blind Support Association (NBSA)

 

南の大洋では大きな津波の災害に見舞われ本当に痛ましい限りです  私は今年の4月にプーケットへ行って 数人のネパール人出稼ぎ労働者に出会いました 皆レストランやホテルのごみ処理などの仕事をしていました  あの若者たちの行方も大いに気になるとことです   

 

とはいえ日本は行く年来る年 後はお正月を迎えるばかりとなりました  今年最後のネットニュースをお届けします  年越しの大掃除で慌しいとは存じますが ホッと一息ついてNBSA会員のボランティア活動を読んでみてはいかがでしょうか  

心も体も温まる投稿です  

皆様よいお年をお迎えください

 

20041229                NBSA カトマンドゥ支部 渥美 資子  

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以下は会員の青山茂さんの手記です:


私は 千葉県柏市に住んでいる視覚障害者です  目は光と影がわかる程度ですが 
猪突猛進といいかげんでどこにでも出かけています  もちろんネパールにも行きました  10年前には アンナプルナの近くまでグルン渓谷を歩いています  


私は中越地震の後 間もなく長岡に行きました 長岡高校体育館において 山古志村の皆さんと共に寝泊りし 布団と布団がくっつきあう生活を体験してきました  はり灸指圧で 被災者の皆さんの 心と体を癒せるかも知れないと思い出かけてきました  11月の始めは まだ震度45の余震が毎日数回起こるような時期で 家屋が崩れ去ってしまった皆さんは当然ですが この余震に壊れていない家々の皆さんも  夜には公民館などで寝泊りしていました  私が最初に泊ったのは長岡市神田コミュニティセンターでしたが そこに来られる皆さんもそんな方々で おばあさんたちの中には 余震の恐怖に泣き出す人が何人もいました  


山古志村かじかねの 関さんというご夫婦の家はすさまじい本震で アッという間に崩れ去ったそうです ドカンという音と共に 座っていた関さんは空中に放り上げられ 倒されてしまったとのこと  ごろごろ転がされている間に巨大な梁が落ちてくるわ 柱はばりばり音をたてて折れたり 崩れたりすれわ 後で見るとすべてが瓦礫の山となっていたと言います  関さんは 何がおきているのかわからないまま 何とか這い出してきたそうです  這い出したというけれど 次の余震までの10分くらいの間に 出られたからよかったものの もう少し遅れたら 次の余震でどうなっていたかわからなかったよと40センチか50センチのわずかな隙間を 奥さんと共に這い出してきた恐怖を語ってくれました  


私は、余震がまだまだ続いている長岡に11月5日に入り1週間いました  2回目は12月1日から10日間  最初に行った時には 皆さん心が落ちつかず不安が取り巻いていました  余震に悩まされたり 布団と布団がくっ着いているプライバシーが無い暮らし 将来への不安 崩れ去った家々を思い出しては涙し それはそれはたまらない状況でした  それでも明るく 冗談を言い合いながら集団生活のわずらわしさを吹き飛ばしていました  

当然ここの雰囲気に慣れなくて 戸惑っているひとも少なくありません  そのような人は睡眠不足になるし 自律神経失調症の入り口に立っています   私は 元より自律神経失調症や神経症などを はりや指圧で治すことを専門にしていますから 打って付けだったと思います  また 話を聞くことや元気付けるのも仕事のひとつですから、ここの皆さんと すぐに打解けられました  

 

この被災地には 全国からボランティアが訪れています  さだまさしみたいな有名人から 私のような名も無い者までと様々です ここが選挙区である田中真紀子も 私がいた2回ともやって来て いろいろ話をしていきました ここでがんばるのも当然でしょう  

 

続々と駆けつける名もなき人々の中には 石狩なべを携えて北海道から来た人 被災者の美容ケアにと 神戸の美容室組合は 専用車両で乗り込んできました  山梨からは 抹茶やコーヒーを提供する一日喫茶店等 本当に様々なボランティアに出会いました  私が一番感動したのは 宮城から来たお父さん&おじいちゃんコーラスです  電子ピアノを携えて 懐かしいメロディをたくさん歌ってくれました  みかんの花咲く丘 とんがり帽子の赤い屋根と懐かしい曲が進むにつれ 私の胸は熱くなり ついに涙がこぼれました  気がつくと周りの人々もみんな泣いていました  特に青い山脈の時にはボランティアに来ていた 若者さえも涙して 体育館が泣いている、そんな感じがするほど、すばらしい感動でした  


 ボランティアは様々な段階があると思います  やや強制的なもの 自己表現や自分探しのレベル 社会や周りの人々に感謝の気持ちでボランティアをする人 そしてマザーテレサのような人もいます 全ての人がマザーテレサのようになれるわけではありませんが それを目標にし 心を 魂を磨いていければよいのではないかなと 思っています  

 中越地震のボランティアになぜ参加したのかというと 視覚障害者が一般的な社会の中で それも緊急事態の中で、どれだけ貢献できるかを 自ら実践したかったからです  今回の地震の中で 私より早く 東京の両国 つまりお相撲さんの所ですが そこからやって来た 大田さんという視覚障害者がいました  この人を始め様々な視覚障害者が マッサージやはり灸などでボランティアをしていました  このことは、ある一定の条件があれは 障害者でも十分社会貢献できることを証明したようなものです  

 

また私は 当時山古志村に外部からまだ人が入れない時に 仲良くなった村の人に連れて行ってもらいました  と言うより触ってきました  道路に亀裂が何百メートルも続いていたり 突然50センチも段差ができていたりしていました 砂利道を歩くと足がもぐってしまう  その場所は雨で流された土砂で亀裂が埋まり柔らかいために そうなってしまうそうです  これだけでもすごいのに 連れて行ってくれた人が 山越でも ここが一番被害が少ないんじゃないかな とぽつりと漏らすのを聞いて いかにこの地震が激しいものだったのかを感じました  山古志村は 鯉と闘牛の村です  家は何とか持ちこたえても 牛小屋が潰され 屋根が重くのしかかって 中の牛を助けてやれない  その牛に最後の水を汲んで飲ませると おいしそうに飲んでいたそうです  それを見ながら ヘリコプターに乗り込んで非難して行くやるせない気持ちが涙となって 後から後から湧き上がってきたそうです  


今回私は今まで経験できないことを経験し 様々な人々に出会い 本当に多くのことを学ばせてもらいました  地震が起きたから参加できたことで 大変申し訳ありませんが 出会えた方々に感謝しております 


私は盲人なので 誤字脱字や変換ミスなどがあると思いますが ご容赦下さい  

青山でした


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NBSAネット・ニュース 編集 渥美 よりこ カトマンドゥ在住  

NBSAホームページ: http://at.sakura.ne.jp/~ilte/nbsa/