――― NBSAネットニュース2008年7月号 ――――

 

ネパールの視覚障害者を支える会(NBSA)の会員 支援者の皆様

 

日本は蒸し暑い日々が続いていることと思います  皆さんお元気でしょうか  例年より雨季の訪れが遅く 稲の発育が遅れ気味でしたが やっと本格的に雨が降り始めました

カトマンドゥは盆地ですが案外風が吹き 日本の夏よりかなり快適に過ごしています  さて 5月6月とネパールの政変をお伝えしましたが 未だに大統領と首相が決まっていない有様  国王には退位してもらった都合上 一刻も早く国の体裁を整えないとあまりに外聞が悪い  とはいえ 政体が変わっても国際社会に大きな影響を及ぼすことは何もないのが 最貧国のネパール  時がゆっくりと移っていきます  草のように吹く風になびき ロバのように我慢強い穏やかな人々  昨今の日本のように無意味な殺生はここでは起きない  ネパールの魅力はエベレストだけではなく そこに住む人々との気さくなふれあいにもあるでしょう  どうぞ一度おいでませ ネパールへ 

 

●現地活動報告  定例のカセットテープライブラリ事業の他に以下の活動をしました

 

6月21日と22日 日本事務局の高梨さんを迎えて懇親会  報告ヤダブ ダハール

初日は役員が集まって 存分に話し 飲み明かすことになっていたが 私は夜勤の仕事で参加できず残念だった  翌日は高梨氏に講演をお願いしていて カトマンドゥ盆地の視覚障がい者とボランティア 特に若い人を40人以上招待していたが 突然の交通ストの影響で 10人足らずの参加であった  私は現地の事務局長をしているので 何があっても参加したいと思い 子守がいなかったので息子を連れてバイクで来た  また片道2時間歩いて事務所に来てくれた兄弟もいた  こちらの事情 あちらの事情など情報を交換しながら話しを進めたが 私はNBSAの事務局歴は長いが 晴眼者なので高梨さんに質問をすることはあっても 応答のほとんどは役員のオムにしてもらった  短時間であったが 高梨氏の話で最も印象的だったことは  何でも自発的に自分自身が動いて行かねばダメだ と言うことだった  私自身日本に研修に行き 日本は障がい者福祉大国だと思っていたが 今はそうでもないとのことに驚いた  最後に 高梨氏はネパールの視覚障がい者に興味を示してくれたことが 何より嬉しかった  高梨さん本当にありがとう

 

6月30日 ポカラ市の親の会 フォローアップ会議  報告オム プラカス

会場は昨年同様 アマルシンハ学校の盲児教室で行った  参加者9名  かなり活発な親が自発的に集まったが 前回と同じ顔ぶれであった  22日 高梨氏の指摘があったように 当事者の親たちどうし仲良くなって 自分の言葉をもって 話し合いをしてもらう事が肝心と心がけてはいたが  思うようにいかない  こちらが余計に話を進めてしまうか テーマがずれて雑談になったりした  しかし ポカラの親の会は どの地方の会よりやる気がある  こんどは自分達で運営資金を集め 学校の教師を招いて会議を開き 親との親密な関係を築きたいとのこと  また NBSAへ生活自立訓練会の要望も上がった  

 

7月13日から16日 サノティミ キャンパスの学生フォーラム  報告プララダ タパ  

これはNBSA独自の催しではないが  メンバー2名が強力にサポートした  ネパールの盲学生は 将来公立の小学校で国語や社会科の教師を目指す者が多い  黒板を使わずに どのように子ども達に内容を理解させるかが最大の問題点で 学校に宿題や視覚教材を作ってくれる協力者がいないのが欠点だ  実務経験の長い バクタプルの小学校教師サビットリさんの話が大変有意義だったが テーマがあまりに難解で 簡単に解決方法がみつからないまま閉幕した  NBSAはこれら盲教師に オーディオによる教材など提供できそうだ

  

6月29日 SLC 盲学生合格者の発表  報告プララダ タパ  

今年も高等教育卒業短大進学資格取得試験の合格者が発表された  全国で約40名の視覚障がい生徒がこれに合格したようだが 正確な数字は未だに発表されていない  しかし昨年より合格者が増え それもカトマンドゥ盆地以外の受験生が多く合格した  ネパールも盲学童のための教育が向上している証だとみてよい 喜ばしいことだ  

 

7月5日 呪術師ってご存知? 

つい先日のことだった  NBSAスタッフが何気なく外にでると  小さな中庭にカラスのように全身黒装束に身を包んだ男があぐらをかいて座っていた  スタッフは思わず悲鳴を上げた  慌ててみんなが外に出た  その見知らぬ男は 首から長さ2メートルもある大蛇の干物をぶら下げて これまた1メートルくらいありそうな数珠を手になにやらぶつぶつつぶやいている  聞くところによるとマントラらしく 彼の正体は黒呪術師  邪悪な闇の世界を司る男で お金をもらえばいやな敵などを呪い殺す仕事もするという  カトマンドゥのしかも首相官邸に近いNBSAの事務所にこんな男が出現するとは  うーん ネパールの文化は奥が深い  渥美よりこ

 

●ネパール関連ニュース

 

−6月20日 カトマンドゥの中国大使館前で抗議 亡命チベット人700人拘束 

ネパールは約2万人の亡命チベット人が住んでいる  中国ラサで起きた暴動をきっかけにネパールでも抗議活動が展開されていたが 拘束者の数ではこれまでで最高となった  なお 中国政府は1ヶ月間ネパールからチベットに入る旅行者へ ビザの発給を止めていたのでネパールの観光産業にも打撃を与えた  

 

−6月 久々の大型バンダが カトマンドゥ盆地に吹き荒れた 

バンダとはゼネストのこと  昔は志を同じくする者が 一般市民に協力を求めて交通機関や商店などを休業してもらい 政府などに抗議の意思を表すものだった  最近のバンダは 当事者間で解決すべき問題も 市民を巻き込んで暴力的に実力行使するからいやだ いやだ  6月10日から23日の間 飛び石で実力バンダが数回決行された  すべてガソリン不足そして価格の高騰に起因する  バス代などの公共車両の料金がドンと値上がりし 政府が認めたバス料金の値上げ率と会社の要求にずれが生じたのが第1弾  その後 バス会社の学割率が低すぎると学生団体が武力で抗議し 3日間丸ごとバンダ漬け    ほぼ暴動に近い状態にまでなった  何とか収まったものの 先日は大学生が交通事故死し 学生団体がバス会社を相手に訴訟を起こして これまたバンダ  むむむ そんなの当事者どうしで話し合ったら? 

これらのバンダを分析してみると 言うまでもなく暇人が多いからできることだ  日本だったら自給で働くパートタイマーたちが まず文句をつけるだろう  しかし ネパールでは慢性的に若者の失業率が驚くほど低い 誰もが所詮暇だらけ  つまりこの国が貧しすぎるのだ 

 

−6月20日 携帯の不通 ねずみが原因 

山国ネパールでは携帯電話の普及が固定電話より進んでいる  しかし 道路もろくに整備されていない中西部ネパールのガンダギ ダウラギリ郡で半年以上も携帯電話が不通だったことが最近わかった  携帯を中継するアンテナ塔のケーブルをネズミがかじっていたのだ  寒い時期はケーブルからもれる熱で暖をとり いわゆるネズミ算式に仲間が増えいった模様  猫イラズも役に立たず カトマンドゥから技術者を呼んで修理した  半年間も携帯が不通になっても 誰もパニックにならなかったのがすごい  日本だったら発狂する人が出たかも知れない  田舎の人にあやかりたい  

 

−7月2日 幼い命を救った12歳の少年に首相自らが表彰

先月末 ネパール西部のセティ峡谷の割れ目に2歳半の少女が落ちた  カトマンズのカヌー協会 地元の警官 軍隊が幼児の救出に向ったが皆失敗  最後に地元の12歳の少年が体に綱を巻き60フィートの地面を下り 幼児を救出した  この少年はダマイという最下層の仕立て屋カーストの出身で一躍国民的英雄になり カトマンドゥに呼ばれ首相からも表彰された  また高額の寄付金も各地から送られ 親の借金問題 教育費の心配も永久的に解消した  しかし 少年の一発狙いアクションが金銭的な生涯保証につながったことに批判的な人 命がけで救出を試みたレスキュー隊が 何にももらえなかったことに同情を寄せる声も上がっている

 

−7月2日 どこへ行ったヒトラー寄贈のベンツ

先月号でお伝えしたヒトラーがネパール皇室に寄贈したというベンツが 旧ナラヤンヒティ王宮にないことが明らかになった  この寄贈品 ダイムラーのベンツは 50年以上前にあちこちの権力者達にたらい回しにされ 今はインドで保管されているそうだ  人騒がせな記事を載せたのは有力英字紙カトマンドゥポスト  ネパールの新聞記者はスクープを狙いすぎで 時々ものすごく記事を捏造する  用心が必要だ

 

−7月2日 元ネパール皇太子パラス シャハが一般国民用パスポートでシンガポールに向け出国した  他に元皇族2人も同行  パラスは出国の理由を 子どもの養育環境を模索するためだと言うが 一部では亡命説もあり 巻き返しを狙う可能性があると危惧されている  かなり古い話だが フランスのドゴール大統領が亡命政権を樹立したような記憶があるが 人望のないパラス王子ではちょっと器が小さいだろう  現在 旧国王支持者らによる武装蜂起などの情報はない

 

●ネパール時の動き  

 

王政を廃し 共和制に移行したネパールで 4月からの宿題 未定だった制憲議会の議員26議席がやっと決まった  与党野党ともに波風が立たないニュートラルな知識人などを加えた選任であったが 新政府への移行を主導する最大勢力の共産党毛沢東主義派と 第2勢力のネパール会議派の折り合いがつかず 会議派党首コイララ首相の象徴大統領就任などを巡っていまだに対立している  それより前 会議派のコイララ首相が辞職して  同党内ではマオイスト派の政府から完全に離脱し 野党として独自路線を貫くという意見も出ている  

さらに厄介な宿題が残っていた  選挙前はタライ地方のマデシ自治区の認証とマデシの人々の集団入隊を約束していたが これまで棚上げにされてきた  そこでマデシ勢力は切れてしまい武力をもってこれに対抗  インドからの物資を運ぶ南部道路を封鎖して暫定政府に制裁を加えた  とりあえず自治区は承認されるようだが ネパール軍への集団入隊者数など 具体的な話はまったく出ていない  このあたりが最も肝心 またひと荒れしないよう祈るばかりだ  

 

●グルカ兵の物語 6 石頭

 

グルカ兵の身体的な特徴と才能について いろいろな逸話がある  特に彼らの頭は頑丈だと言われている  1879年の第2次アフガン戦争中 スベアール ジャンギア タパの額に当たった弾が 頭を突抜くことなく跳ね返ったので 以来この男には弾丸というあだ名がついた  

 

1890年 W スイントン大尉は 自分より年上のゴライ タパの頭から跳ね返った弾丸で死んだ  しかし タパは軽傷を負っただけだった  1931年グルカの下士官はインド北西国境地帯のラムザクで ラバの鉄蹄で頭を蹴られた  ラバは足にケガをしたが このグルカは少し頭痛がしただけだ と言った  

 

第1次世界大戦の終わりごろ 数人のグルカ兵たちは 白系ロシア人とボルシェビキが戦っていたコーカサスの山脈地域にいた  ある地方紙は 見知らぬ小さな男が頭を下にし 木からぶらさがって 下を通る敵を倒したという記事を掲載した  さらに彼らはナイフを投げて敵を殺し そのナイフを探しに馬よりも速く丘の上に向かって走って行ったと  


1857年のインドのムティニでは グルカ兵達は110マイルを48時間で進軍した  そのとき以来有名になったエピソードをふたつ紹介しよう  あるゴルカ兵は真珠のネックレスを地面に投げつけ 糸を抜き その真珠でおはじきをしたという話  また 彼らは金銀のかけらを取るために錦の織物を燃やし すばらしいショールをシーツとして使ったという  


山岳地帯の人々 ゴルカ兵らにとって海はまったく未知のものだった  第一次世界大戦中 初めて海外へ行ったかれらは こんなすごい水はいったいどこから来るものなのか と不思議がった  

 

1941年 英国人がインドに空爆を始めた時 グルカの志願兵達は 英国人がパラシュートを持って行くのに驚いた  ああ 我々もパラシュートを持っていたらなぁ とグルカのひとりが楽しそうに言った  しかし あるグルカが初めて飛行機に乗ったとき 彼はパラシュートの機能が落下速度を弱めることを知らなくて 飛行機のパイロットがちょっとでも高度を下げる度に驚いた  

 

NBSAネットニュース 編集と文責 渥美よりこ カトマンドゥ在住

2008年7月15日

 

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